<序章の期~昭和26年>
戦後の動乱期には各地区で電力供給会社は犇めきあい競争に明け暮れていた。どの企業も資金繰りに追いまくられていた状況にあった。その情けない状況に危機感を抱いた【電力王・松永安左エ門】などが「日本の復興の要は安定した電力供給だ」という認識の上に現在の組織体制がスタートした。全国9カ所において単独で電気を供給する、東電を頭にした『九電力』体制が稼働し始めたのである(各地区1社による独占経営しか認めない体制)。ここからが『電力業界君臨』の台頭の源になっている。わずか61年前のことである。この体制が永続するものではないのだ。
九州電力も同様に昭和26年から躍動のスタートラインに立った。苦節24年の昭和50年(1975年)を境にして九州においてマンモス企業への繁栄期(36年)を経て【2011・3・11】の破綻開始までを眺めても組織の勃興・発展・衰退の法則が貫徹されていることがわかる。設立10年間は中小企業並みに資金窮迫におかれていたのである。そこで九電の使用電力の推移からこの業界の栄枯盛衰の変遷をレポートすることにした(資料の「最大電力の推移」というのは最大消費量のことを指す。「発電所認可出力の推移」は九電が自前で供給できる発電量のことを意味する)。
<受難の期~昭和30年まで>
どの企業の経営においてもスタート時期は受難を浴びる。九電も同様のことがあてはまる。事業開始から4年目の昭和30年において最大消費電力は113万kwしかなかった。平成13年の1,694万kwと比べるとわずか6.6%という小規模であった。この規模であれば売上もたかがしれている。また、この昭和30年までは日本の経済発展が本格化していないのが充分に読み取れる。
ただ日本の製造・工業の発展の基盤は整備されつつあった。だが残念ながら当時の九電の発電能力からみれば工場の生産活動に必要な電力を供給することは不可能であった。だからどの大手企業の工場でも自力で発電所を装備していた。たとえば延岡の旭化成工場は水力発電・火力発電総計でピーク20万kwの発電能力を備えていた(昭和40年がピーク。五ヶ瀬川にある水力発電所は同社のものであった)。それは北九州においても同様であった。当時の八幡製鉄も自前の発電所を構えていたのだ。
結論からいえばこの4年間で日本経済発展できる産業インフラ(工場生産能力アップ)は整備しつつあったのだが、九電の当時の供給能力から勘案してみても全く貢献できる余地はなかったのだ。まったくの蚊帳の外であった。一方頼るべき民需=家庭用電力の増大は期待できない生活水準であった。電力使用量からみても一般庶民の生活レベルは貧しかったことがわかる。この当時の現状から【原発マフィア】として日本国家を制圧することは誰もが予測できなかったであろう。時代の流れが活かしてくれるのだ。
※記事へのご意見はこちら